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「うっせぇわ」を聞いた30代以上が犯している、致命的な「勘違い」

うっせぇわ

あなたに「うっせぇわ」を理解しているとは言わせない

誰も本音を語らない時代。少なくとも、ある人にとってはそうだ。

その人は、被害者意識にも加害者意識にも苛まれることはなく、そうと言われないまま否定される――

この書き出しで、読むのがしんどそうだと思った方もいるかもしれない。本記事のテーマは、YouTubeで脅威の8500万(3月3日現在)再生を誇る注目の楽曲、Ado「うっせぇわ」の分析である。

この曲の存在を知らない「年上世代」も含めた全世代の読者に伝わるように、との依頼だったので、その意に添うべく、現在の日本の平均年齢である47歳の読者を想定し、親切に書きたいと思う。けれども筆者がこの曲を誠実に分析しようとすればするほど、この曲が「年上世代に聴かれようとしていない」ことを明らかにしてしまうだろう。

「うっせぇわ」は、2020年代の若者の本音そのものである。そしてそれは、年上世代が本来触れるはずのなかったものなのだ。

「うっせぇわ」は、2020年10月23日にYouTubeに投稿された。歌い手は、同日が「17歳最後の日」だという2002年生まれの現役高校生Ado。それ以外の情報はほとんど公表されていない。「うっせぇわ」は投稿後すぐに注目され、2020年末時点で2000万回再生を突破していた。

だが勢いは止まるところを知らず、さまざまなクリエイターによる「歌ってみた」(カヴァー版)動画の投稿やTikTokなどSNSでの拡散が続き、その後2ヶ月足らずで8000万回再生を記録。3月中には1億回再生を突破しそうな勢いだ。

作詞作曲はsyudou。米津玄師と同じく、ボーカロイドシーンが輩出した新進の鬼才のひとりだ。2019年に発表したボカロ曲「ビターチョコデコレーション」は1200万再生を突破しており、シンガーとして「うっせぇわ」のセルフカヴァーも投稿している。

「うっせぇうっせぇうっせぇわ」。ちょうどオクターヴの跳躍を反復するメロディ、そしてなにより多くの人が普遍的に持ったことがある感覚「うっせぇ」。このサビ冒頭の決定的なキャッチーさによって(最近はテレビなど全世代型メディアが取り上げるようになったことも相まって)、この曲はいま、世代を越えて知られ、口ずさまれてきている。

けれどもこの曲は、本来「誰の」曲だろうか。本稿では、あまりに有名になってしまったサビの一部だけでなく曲全体の歌詞を見渡すことで、改めてこの曲が持つポテンシャルを考えてみたい。ただし、ここから展開する議論は、「作者syudouはこう考えたはずだ!」と意図を言い当てるものではなく、あくまでひとつの批評である。

チェッカーズと尾崎を連想し、術中にハマる

「楽曲が大ヒット」するとはどういうことか。それは本来の届け先を超えて、多くの人に聴かれるということだ。その状態に至ってもなお、この作品が本来届くべき人に、「自分のための曲だ」と気づいてもらうにはどうしたらいいか。

そんな問題をめぐって、「うっせぇわ」には巧妙なトラップが仕組まれている。

「ちっちゃな頃から優等生」。Aメロはこう始まる。そのあとには「ナイフの様な思考回路」とある。そう、ご明察の通り。1983年リリースのチェッカーズのデビュー曲「ギザギザハートの子守唄」へのオマージュだ。いまの若者にとっては生まれる前の時代だから、当然この曲を知らない。だから部下や知り合いに若者がいるなら、

「「うっせぇわ」は「ギザギザハートの子守唄」のオマージュなんだよ」

と教えてあげるといい。

「え、そうなんですね、知らなかったです!」

若者はさわやかな会釈とともにこう返すだろう。そして内心思うだろう。「うっせぇわ」と。

というより、「うっせぇわ」を知っている年長世代の多くが、すでに上記のような行動をとってしまったあとではないかとも思う。この箇所の誘惑は強い。誰かに言いたくなっただろうし、オマージュだと気づいて、この曲を「わかった気」になった人もいただろう。まさにそのトラップによって、この曲は大人を大人として切り離す。

年長世代が「わかった気」になって満足することによって、それ以上若者世代のテリトリーには土足で踏み込まれない。彼らの“浅い理解”に頷いてさえおけば、自分たちとこの曲の特別な結びつきには介入されない。頷きながら、若者は内心「そんなことどうでもいいんだよ」と思うだけだ。

分断である。基本的には、分断は現在の世界を苦しめるネガティヴなワードだが、誰かのものを、「それは私のものでもある」と言ってくる強者――つまりジャイアンをたしなめるときに必要なものでもある。残念ながら。

もうひとつのトラップは、大人への抗議を歌った上の世代のヒーローに重ね合わせて、「わかった気」になることだ。たとえば尾崎豊と重ね合わせること。

この曲は「大人への抗議」を歌っていない。抗議とは、コミュニケーションである。若者が、盗んだバイクで走り出したり校舎の窓ガラスを割って歩いたりしなくなってもうずいぶん経つ。若者が大人世代に反発心を持っているなら、それは自分たちにわかるかたちで表現されるだろうと思う大人世代は、楽観的である。若者は、あなたの前では最後の直前まで「優等生」で「模範人間」だろう。

Photo by iStock

「うっせぇわ」が描いているのは、大人への断念であり、実際には語られることのない本音である。言うなれば、飲み会で年長者と談笑した翌日に辞表を出す若者の内面だ。事が起こったときにはそれは終わっている。コミュニケーションは必要とされない。

先日、尾崎豊のドキュメンタリーを目にする機会があった。両親と尾崎の仲がよかったことが描かれていて、とても納得してしまった。抗議とは、「真意が伝わるはずだ」という信頼と表裏一体である。「うっせぇわ」の断念と拒絶は、この通りもっと知的で冷たい。

若者は、LGBTQと同程度にマイノリティ

結論先取的に聞こえたかもしれないので、いくつかの補助線を引いておこう。私は単に年長世代を否定したくてこの記事を書いているわけではない。だが、いやだからこそ、せっかく本稿を読んでくださっている人に、どうしても知っておいてほしい事実がある。

それは、現代の日本社会において、若者はマイノリティだということだ。

筆者が5年前から東京大学で開講している講義「ボーカロイド音楽論」の中では、必ずセクシュアル・マイノリティについて触れる。国内外にさまざまな調査があるが、人口の8〜10%がLGBTQなどのセクシュアル・マイノリティに該当すると言われる。

対して、現在の日本の10代(10〜19歳)の人口は約1100万人。日本の総人口(約1億3000万人)に占める割合は8%程度ということになる。セクシュアル・マイノリティの割合と同じくらいなのである。

「社会がセクシュアル・マイノリティを存在しないもののように扱うことは、あなたたち10代全員を存在しないもののように扱うことと等しい。それがどれだけ暴力的なことかわかりますよね?」

もちろん割合によらずすべてのマイノリティは尊重されるべきだが、この事実に学生はリアリティを感じてくれるのであろう、講義でこのように言うと聞く姿勢が俄然真剣になる。

あるいは筆者が言う前から、若者は自分たちもまたマイノリティであることをすでに直感的に知っているのだと思う。syudouを擁する現在のボカロシーン(若者による若者のための音楽シーン)において、すりぃの「テレキャスタービーボーイ」(2019年)やてにをはの「ヴィラン」(2020年)など、LGBTQの感性に寄り添う側面を持つボカロ曲がトップ級のヒットソングになっているのは偶然ではない。

若者にとって、セクマイの物語は「我が事」なのだ。なおこのボカロP両氏ともがAdoに楽曲提供している(12月24日投稿「レディメイド」はすりぃが作曲、2月14日投稿「ギラギラ」はてにをはが作曲)。

参考までに、本記事が想定している47歳の読者、すなわち1973年生まれは、現時点で最後の人口ピーク、団塊ジュニアのど真ん中である。同年の出生数は209万人――現在の10代における1学年は約105万人なので、ほぼ2倍である。

団塊ジュニア世代が10代だったころと、いまの10代とでは、世界の見え方があまりに隔たっているのだ。

そして、若者がマイノリティなのは、いまに始まったことではない。いまの30歳、1990年の出生数は120万人。少なくとも10年前には現在の図式は始まっている。

もちろん、マイノリティが声を潜めなければいけないということはいっさいない。断じてない。だが、多数決の論理のもとでつねに強者となるマジョリティ=大人に対して、そしてその「強者性」への無自覚さに対して、若者たちが世代全体として諦念を共有していたとしても、なんの不思議もない。繰り返すが、もうずっと前から若者は、盗んだバイクで走り出していないのだ。

若者が若者に送る「処世術のアドバイス」

だから、「うっせぇわ」なのだ。この曲を歌うAdoは10代。そして作詞作曲者のsyudouは、ネットラジオなどで公表している来歴によると、就職も経験したことのある20代である。

先ほど掲載したミュージックビデオに登場する少女はセーラー服を着ているが、一方、歌詞では「経済の動向も通勤時チェック」「酒が空いたグラスあれば直ぐに注ぎなさい」など「社会人」が想定されているようである。ネットの反応の中には「矛盾ではないか」という声もあったようだが、この言わば「10代と20代の混在」は矛盾であるどころか、この曲の本質である。

「うっせぇわ」は、2010年代に先輩マイノリティとして10代を過ごしたsyudouが、現在10代を過ごす後輩マイノリティに向けて送る「年長世代をスルーする」処世術の実践的アドバイスなのだ。

本音は音楽に託して、マジョリティである年長者には期待しない。そうすれば「問題はナシ」。そうやって世界をやりすごす一方、「頭の出来が違う」と、「俗に言う天才」だと自分に自信を持っていろ。盗んだバイクで走り出さずとも(3回目)、大人に垣間見せない内面の中ではずっと尊大で不遜でいろ。そう力強く勇気づけてもいる。

これはともすれば、10代と同じくマイノリティである20代による言葉だったとしても、響きが違えばもう少し説教くささも出ていたかもしれない。だがこの楽曲にはAdoがいた。Adoという歌い手の天才的歌唱力によって、ふたりの若者(Adoとsyudou)の表現は、輪郭のぶれない強い一人称「私」に統合される。そしてその力はそこでとどまらず、この曲の本来の届け先である若者を「私」の中に取り込む。

「私が俗に言う天才です」の箇所を、「なんと思い上がったナルシズムだ」とか、「聞いているこちら側も恥ずかしく感じる」などと言って、非難する声は少なくなかった。字面だけを取り出せばそう言いたくなるのもわからなくはない。けれども筆者にはどうしても、Adoやsyudouが思い上がっているようにはまったく感じられなかった。

限られた個人の素朴なナルシズムではありえないこの曲の「天才」の響き――「私」という一人称単数を「天才」だと歌いながらも、そこには決定的に「連帯」の響きがあった。実は、本稿のすべてはこれを考えることから出発した。冒頭で「この曲は本来「誰の」曲だろうか」と問うたが、「うっせぇわ」は、Adoとsyudouというふたりの若者の才能が重なり合うことで、「すべての若者の曲」になった表現なのである。

冒頭で宣言した通り、年長世代には耳の痛い文章になってしまったかと思う。彼らが苦労知らずでここまできたわけではないことを、若者は少なくとも机上では知っている。いま読んでいるあなたが47歳なら就職氷河期第一世代。自分たちも被害者世代なのに、どうしてこうも拒絶されなければならないのか。そう思うかもしれない。

各世代には世代ごとの被害者意識がある。森喜朗も「(自分にとっては)ふつうのことを言っただけなのに、怒られた」と“被害者意識”を持っていると思う。

だがやはり、年長世代は数が多いのだ。若者があなたたちを「一切合切凡庸な」と指差してしまうのは、数が多すぎて顔が見えないのだ。マジョリティは強者である。ではマジョリティであるだけで加害者になるのかというと……ときにそういう場合もあると言わざるをえない。「うっせぇわ」は、その被害者たちの声なのだ。

最後に念のため。LGBTQ当事者に無理やりカミングアウトを強いてはいけないように、本稿の議論を根拠に「お前らは本音を言ってないらしいな、言いなさい!」などと若者に強要してはいけない。本音を言わない権利を尊重してほしい。まずはそれから。

その上で、自分たちの数の多さ=声の大きさにブレーキをかけて、「現代の代弁者」の役を正しく若者に譲るなら、そのずっと先には「分断」が解消した別の光景が見えてくるかもしれない。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/80819

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